第十七回
「未来を担う子どもたちを救うのは本物を教えることだ〜演劇鑑賞の意義〜」
札幌市立前田中学校教頭 伊藤 英二
「演劇鑑賞のきっかけ」
昨年本校に転勤してきて最初の学校祭の後のことである。
校長先生に「本校のステージは素晴らしいですね。こんなに頑張れるなら本物の演劇見せてあげたいですね」というと
「来年は是非本校の生徒にも生の演劇を見せたいね」という話で一気に決まった。
劇団を探しているうちに文化庁の巡回公演事業の応募が目に入った。すかさず応募し、運良く今年度の「青年劇場」の公演が決まった。
「教育って何だろう」そんな単純な思いが最近よく頭をよぎる様になった。
昨今、学力が重視され、毎日が授業で溢れかえり、生徒も親も地域も国も学力テストの順位に神経をとがらせている。
※「博士の愛した数式」
作=小川洋子
脚本=福山啓子(2006年〜2010年演出)
演出=村上秀樹(2013年〜)
2006年〜2010年・2013年〜
通算204ステージ(2016年3月現在)
撮影:V−WAVE
「何かの知識を余計に知っていることが本当の学力なんだろうか」と自問自答する日々が続いている。
日本人はまだまだ生活に関わりないことやお金にならないことに対して理解を示さないところがある。
文化や芸術に対しても外国で評価されて初めて高い評価を得ることが多いのはとても残念なことだ。
学校教育においても音楽や美術と言った芸術分野を学力の方が大事だからといって切り捨ててきた日本の教育のあり方に危機感を募らせていたこともきっかけの一つである。
「感性は感受性が高いときに養うべき」
人生の中で最も感受性が高いのは思春期ではないかと思う。
わたし自身も還暦を目前にして未だ心に強く残っているのは中学生時代にみた「演劇」だ。
題は「べっかんこ鬼」内容こそほとんど覚えていないが体育館の後ろの隅まで響き渡る大きく
しかも鮮明な声と感情豊かな表現に驚くやら演技に感動するやらで今回の本校の生徒が味わったのと同じ衝撃的な感動であったことを昨日のように覚えている。
「鉄は熱いうちに打て」と言うがまさにそれが今回の演劇鑑賞であったと思う。
来年の本校の学校祭ステージ発表が今から楽しみである。子どもたちが今回の演劇鑑賞で得たもので今までとどう変わったのかまさに検証できるチャンスであるからである。
「演劇鑑賞から子どもに学ばせたかったこと」
一言で言えば「マンパワー」、人の持っている限りない力とエネルギーを感じてほしかった。
世の中デジタル時代でテレビにしても映画にしてもデジタルを駆使したものが多く見られ、
家庭におけるビデオ編集なども一頃プロでなければできなかったことが誰でも簡単にできるようになった。
そんな中、もちろん音響や効果などではパソコンなども活用されているが、ステージの上の人の動きや発せられる言葉はまさしくアナログそのものであるのが「演劇」の世界だ。
今や子どもたちはテレビゲームをはじめ虚構に満ちた世界に安住している。
従って己の潜在的な能力も含め、生きた人間のパワーを感じずに過ごしてきている場合が多いのではないかと思うのである。
コミュニケーション能力の低下、表現力の低下はテレビゲームと携帯に囲まれて育てば自ずと誰だって低下するのではないだろうか。
デジタル機器は便利ではあるが所詮道具である事を教える側も使う側ももっと認識すべきである。
例えば、人を評価するのは人であってパソコンではないのである。数値化することでいかにも最もらしい評価をしているかの様に見えるが、
人を評価するのは本来人の「感性」ではないのかと思うのである。
本校の9割の生徒が生の演劇を鑑賞したことはなかった。
正直2時間近いステージ※「博士の愛した数式」は内容がどちらかと言えば中学生には少々難しく、
劇自体も淡々と流れていく部分も多く、途中で飽きて来るのではないかと内心ひやひやしながらみていた。
終わってみれば最初から最後まで本当に真剣に目を丸くしてみていた生徒の姿に安心するとともに、
「今の子は…」なんて言われることが多いが、本校の生徒は「捨てたもんじゃない」と演劇も感動したが、子どもたちの態度にも感動した。
生徒の感想文を読んでまさに今回意図したリアクションに(例えば「演技に驚いた」「生は初めて観たけどすごい」)溢れていた。
あまり鑑賞に賛同していなかった職員も本物に触れ、生徒の変化を目の当たりにして「よい演劇でしたね」と言ってくれた。苦労して開催してよかったと感じたのである。
「思いがけない副産物」
子どもたちは比較的算数・数学は苦手な子が多い。
それは教える側が苦手であった為かもしれないが、今回のお話は数学を違った角度からみてその偶然性の面白さを題材にしているせいか、
子どもたちの感想文には「数学は苦手だけど面白いところもあるんだなと思った。」「もっと勉強してみたいと思った。」
など劇を通して数学に対する見方を素直に変えられのは、感受性が高いからこそではないかと思う。
一過性に終わるかもしれないが、心に残ったのは事実で「数学を勉強しよう」と思うきっかけになったとすれば、さらに素晴らしい成果が上がったといえるのではないか。
一点のために嫌々学ぶ勉強より、「面白そうだな」と思ってやろうとする勉強ではきっと10年後に大きな差がついていると思う。
それが本当の「勉強」であり、真の「学力」となるのではないかと思うのである。目先の一点より50年後の百点の方が価値があると思うのは私だけだろうか。
「中学校で学ぶものはきっかけに過ぎない」
中学校で学ぶ教科の学習は所詮広く浅くであり、多くはきっかけでしかないはず。
それなら同じきっかけでも体験したり、今回のように生で演劇を鑑賞するといった経験の方が10年後20年後にどれだけ「生きる力」になっているかと思うのである。
覚えられるときに覚えることは勿論大切である。
しかし、この感受性の高いときに琴線に触れる経験をどれだけ多く経験しているかと言うことが、
人生を生きていく上でどれだけ大きな違いになるかを我々大人はもっと考えるべきではないかと思うのである。
今回の、演劇の公演がもたらしてくれた子どもたちへの影響力には計り知れないものがあったと確信している。
きっと成果は50年後に現れているのではないかと思う。それが「教育」というものではないだろうか。
(2015年2月)
※執筆者の冒頭の肩書は、当時のままになっています。
現在の肩書が分かる方は、文章末尾に表記しています。