第七回

「バーチャルリアリティの世界からリアリティーへ」


沖縄県立北部農林高等学校教諭  大城 尚志

   私は、一演劇ファンであるが、演劇を語れるほど数を見ているわけではない。 しかし、幼い頃、村芝居にはよく行ったし、舞台には親しみを覚えている。 小学校の頃、母校の体育館で一般公演された、東京芸術座の「蟹工船」や「回転軸」は、その強烈なメッセージと共に、迫力ある芝居が忘れられない。

 その影響か、6年生の夏、林間学校では、寸劇のシナリオを書き、クラスの男子で演じた。ほぼドリフターズの受け売り。 書いて、演じて、指示してやらせた、独断の15分は、担任や同級生に大うけだった。

 父親から、「劇作家」という仕事があることを聞いたのも、「ドリフターズに入りたいのならそれでも良いぞ」と冗談とも取れないようなことを言われたのもその頃。

 高校での観劇体験は、学校公演の「走れメロス」。客席も舞台にして走り回るメロス、あの体験は忘れられない。 僕の脇をリアルに走る。フロアーの振動がより臨場感を増す。

 「芝居は素晴らしい」を決定づけたのは、高校3年の時に学校公演で見た北島角子さんの一人芝居。 北島さんは戦後沖縄演劇の草分けで、高校の大先輩だ。彼女は、今日に至るまで、反戦平和をテーマに、庶民の目線でメッセージ性の高い一人芝居を演じている。 これまで5回拝見したが、集団自決をテーマにした「赤いぶくぶく」は、秀逸。 深刻なテーマにもかかわらず、笑いを織り交ぜながら演じるところが、沖縄人(うちなーんちゅ)なのだ。

 高校三年生の文化祭では、完全オリジナルの学園ドラマを書き下ろし、最優秀賞を獲得した。 3年生11クラス中9クラスが舞台発表。「兎の目」や「飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ」などを原作から起こしたクラスもあった。 学校内に演劇に詳しい生徒がいたはずはないが、一生懸命指導する若い女性教師がいた。 彼女の指導で生徒会の自治活動も高い水準にあったし、討論やものごとの決定の手続きも教わった。 私たち生徒会執行部は徹底的にしごかれた。私は全国レベルの運動部にいたが、行事前は部活どころではなかった。 彼女の周りに、舞台発表クラスのリーダーたちが集まっていた。

 そんな高校時代を過ごしたものだから、学級担任になって初めての文化祭で、私のクラスは演劇に取り組んだ。 高校野球をテーマにした演劇で、舞台をスタンドに見立て、フロアーの観客席の間を走塁する演出をした。 完全に高校時代に見た「メロス」のパクリだが、さも担任が編み出したアイディアかのように提案し、生徒も喜んだ。

 エンターテイメントとしての演劇の魅力と、シナリオによる進行は(私の)授業にも重なる。 多くの場合、演劇は役者や舞台の側から提供され、観客の参加を期待するものではない。 しかし、授業は、教師の側から提供され、生徒の参加と知識や行動の変容を期待する。 場合によってはシナリオ(授業計画)をその場で変更することも可能であるし、生徒の様子をみて教師は演じる(?)。 生徒が、提供される内容や、提供の仕方に興味がない場合、あるいは教師自体に魅力がない場合、授業の成立に困難を来す。 困難と捉えるかどうかは、個々の教師や、状況によって異なるが、授業は少々のやり直しや、フォローが聞く。 もっとも私は、いくらでもやり直しが利くと思っているタイプだ。

 舞台の醍醐味は、何と言っても舞台と観客の一体感や空間の共有感だ。送る拍手や息づかい、静けさや歓声で、観客である私たちの感動や共感や批判や批難を伝える。 いや、そうして私たちも参加している。

 『もう一つ踏み込んだ演劇と観客の関係はつくれないものか。』

  私みたいな者が考えるくらいだから、新しくも何ともないとは思うのだが、客席が参加し発言する、そして考える舞台演出なども試みれないだろうか。

 お笑い芸人スケバン恐子こと桜塚やっくんの、客席とのやり取り (観客のセリフはやっくんに決められているけど)や、現在、NHK教育のETV特集で放映されている 「ハーバード大学 白熱授業」のマイケル=サンデル教授の授業などはイメージが膨らむ。

 討論会を演劇として演出し、観客席にも意見を求め、演じている方も観客も、観劇しているのか 討論会に参加しているのかよくわからなくなって(クロスオーバーして)、結局みんなで一緒に考えている感じがつくれないだろうか。 場合によっては、芝居の結末(討論の結末)が変わってくるような…。

 先日、立川志の輔さんの落語で経験したのだが、師匠は、噺の最中、観客に語りかけるように時代背景や人間関係の説明をした。 幕がいったん降りてからも、アンコールに応えるように再び幕が上がって、全体の噺やオチについての解説。 さらに「私の場合はね…」みたいに観客に語りかけた。

芝居でもこれはありかなぁ…?こんなことしたら、芝居・演劇にならなくなっちゃうのかなぁ…? でも、考えてみると、「翼をください」は、劇中劇のような、鑑賞している高校生自身のリアリティーに迫るものがあったし、 劇中で、生徒役が自分のことを語っている場面などは、芝居なのか、役者自身の本当のことなのか判らないくらいリアルだった。 観ている高校生の思いも代弁しているから、演劇が提供したかったメッセージと観客のリアリティとがクロスオーバーしていったのではないだろうか。

 青年劇場には、『「翼をください」その後』、あるいは『今だから「翼をください」』を是非構想していただきたい。

 学校公演で見る演劇は、みんなで観て楽しいもの、多くの生徒が共感できるものがいい。 であるなら、生徒の今、生徒の周辺の今がモチーフになっている方がいい。 ※「修学旅行」の名護での一般公演にやってきた、定時制高校の生徒たちの楽しそうな表情が、そう感じさせた。 30年以上前に、楽しい選択肢の少ない中で、田舎の私たちが見ていた演劇の時代と、 ケータイやネットでバーチャルに手っ取り早い選択肢が提供されている今日とは、生徒の捉える実感がまったく異なる。 芸術性の高いものを自ら選択したり、そう言うものに触れる文化性を持ち合わせている生徒は良いが、学校公演は、否応なく強制的に観せられるのだ。 安易なことを言うつもりはないが、バーチャルリアリティーの世界からリアリティーへ、あるいは無関心から少し関心を持てる方へと生徒を引き戻したい。

 地方で高校教育に関わる者として、学校公演の演劇鑑賞について、そんなことを考えた。無知・無礼をご容赦下さい。

(2010年6月)

※執筆者の冒頭の肩書は、当時のままになっています。
現在の肩書が分かる方は、文章末尾に表記しています。




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