稽古場 だより |
『怒濤』をすすめる ふじたあさや
1938年4月の『月刊新協劇団』に、久保栄は「こういう戯曲は書きたくない」という一文を発表している。ちょうど『火山灰地』を脱稿したころで、戯曲を書くにあたって自らに戒めていることを、列記しているのだが、その中にこういう文章がある。
「言葉を粗末にする戯曲、それぞれの登場人物のセリフが、性別とか年齢の差別とかいう生物学的な尺度で漠然と書きわけられていても、あるいは漠然とした社会的烙印をおされていても、結局のところ作者のレトリックによって均一化され、作者の言葉づかいがむき出しになっている戯曲――こういう戯曲も書きたくありません。レトリックではなく、生活の言葉で書くことでは、僕たちの仲間よりも、僕たちから比較的遠くにいる新劇作家のほうが、部分的には成功していさえするのではないでしょうか。」
「僕たちから比較的遠くにいる新劇作家たち」が岸田國士ら「劇作」同人たちを指しているのはあきらかで、その中に森本薫もいた。というより、久保をしてこう言わせたのが森本だったという気がしてならない。というのは、三月に文学座が辻久一の演出で、上京したばかりの森本の『みごとな女』を初演しているからで、これが引き金になって二年後、森本は文学座に入ることになる。そして森本は「おれは新劇の岡本綺堂になる」といいながら、『富島松五郎伝』『怒濤』『女の一生』と続く、奇跡のような作品群を残して、時代を駆け抜けて行った。北里柴三郎を描いた『怒濤』は、一人を描きながら時代を描いて、新劇がほとんど窒息させられていた昭和19年に、新劇のとりでを守り抜いた作品である。
「生活の言葉で書くことでは……成功している」と久保栄に言わせ、自らは〈岡本綺堂〉を目指したという森本薫に、僕たちは今、学ぶべき多くのことがあるのではないか。
高みを目指しつつ、広がりを持つ――森本はそんな作品を書けたただ一人ではなかったか、と思うからだ。青年劇場に、あえて『怒濤』をすすめた理由である。
スタッフ 作=森本薫演出=ふじたあさや 美術=石井みつる 照明=横田元一郎 音楽=藤原豊 衣裳=中矢恵子 音響効果=菊池弘二 ことば指導=大原穣子 小竹伊津子 舞台監督=荒宏哉 演出助手=大谷賢治郎 宣伝美術=Windage. 製作=福島明夫 ↑ ↑ ↑ クリック! |
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