「キュリー×キュリー」に寄せて

板倉 哲

 マリー・キュリーはこんなことを言っている。

 「確かに人類には、公共の利益を忘れることなく自分自身の利益を守るという、現実的な人間が必要だ。けれど、ある計画を無欲に追究することに魅せられ、自分自身の物質的利益にそれを結びつけることなどとうていできない夢想家もまた、必要なのだ。しかし、よく組織された社会であれば、物質的な不安なしで自由に研究に没頭できる資金を、はたらき者の夢想家たちに、保証するにちがいないのである。」
(「キュリー夫人伝」=白水社刊、エーヴ・キュリー著、河野万里子訳より)

 現代の日本が「よく組織された社会」かどうかは語るまい。だが、経済効率等の「利益」や「結果」や「成績」を要求される場面が多い世の中だという事は確かだろう。そしてそんな状況は「夢想家」にとってきっと居心地が良くないことだろう。「夢想家」とは例えば基礎分野の科学者だし、例えば私たちのように学校巡演をする劇団だし、例えば中高生をはじめとする若者たちだ。果たして日本の「夢想家」たちの瞳は輝いているだろうか?笑顔がはじけているだろうか?

 マリー・キュリーはロシア支配下のポーランドに生まれ育ち、フランスに渡ってからも男性社会のアカデミーで研究をした。いわばわがままの許されない逆境で、ありのままの自分を実現し偉大な成果を残したのだ。まるで蚕が繭を紡ぐが如く当然の事のように。

 私は「キュリー×キュリー」で彼女の天賦の才を礼賛するのではなく、ありのままの自分を出す勇気を、輝きを貰いたいと思った。そして観客席の若者たちには、この一見馬鹿馬鹿しい喜劇で笑顔を取り戻して欲しいし、「夢想家」として胸を張って歩いて欲しいと願うのだ。