第91回公演

「尺には尺を」

ウィリアム・シェイクスピア=作
小田島雄志=訳 高瀬久男=演出

 5月公演はシェイクスピア作品の中でも"問題劇"と言われている「尺には尺を」。演出は「ケプラーあこがれの星海航路」「GULF−弟の戦争」に続いて3作目となる高瀬久男さんです。久しぶりのシェイクスピア作品ということもあり劇団内外からの期待が高まっていますが、作品が書かれた当時の時代背景や、この作品を現代に上演することの意味についてさらに掘り下げるために、翻訳の小田島雄志さんや高瀬さんからお話を伺う機会を持ちました。その中から高瀬さんの、公演に寄せる思いを編集部でまとめましたのでご紹介します。


高瀬久男氏
高瀬久男氏

 テーマは"現代劇"という視点から「尺には尺を」をとらえるということですが、例えば中世の芝居を中世の風俗でやっている芝居があったとしても、やっているのも演出しているのも現代人ですから、物事の捕え方は現代の感覚でやっているに違いありません。ですから芝居は常に、現代でやられている限り現代劇でないものはないのではないかと僕は思っています。

稽古場より
稽古場より

 この「尺には尺を」は、シェイクスピア作品の中では「ハムレット」など悩める主人公の作品が出てくる少し前、17世紀初頭の、ヨーロッパ全体が混沌としていた頃に書かれています。登場人物はみな、人物そのものが独立して存在しているのではなく、人や社会との関係において存在していて、いろんな"人間"がクローズアップされていく。僕は、この時代の他の作家の作品と読み比べてみると、シェイクスピアはなんて多様性があるんだろうと思うことがよくあります。いろんな切り口があるし、同時に相反することが起こっている。それに、こうじゃないといけないという人生観がない。こうなってこうなります、というストーリーはあるけれど、見方によってはそれもウソかもしれないし、あるいはそのとき思いつきで言っただけなのかもしれないと。

 僕は10年くらい前から「尺には尺を」は面白いな、と思っていました。喜劇でありながら、なんだか落ち着きがよくないんですよ。笑っているうちに、実は自分もそういう風に見られているんじゃないかと返ってくるようで。今の政治家にも何か同じようなことをしている人が一杯いますよね。解決しなきゃいけないことから注意をそらすために違うことが行われていて、そのうちに本質的なことがどっかに雲散霧消している。そんなとき人は何を信じるかと言えば、関係性を信じるしかなくなりますよね。相手が自分の言葉をどう受け取るかによって、次の言葉のトーンが決まってくる。今喋っていることがどういう風に動いていくかということに眼目をおく、これが僕がずっと思い求めている"関係性の芝居"です。文学座以外で初めてシェイクスピアをやったとき、その時はシェイクスピアシアターのどちらかといえば無名の俳優たちと「ペリクリーズ」を上演したんですが、それがなかなか面白かったんです。今も研修生なんかとやったりしているんですけれども、有名な俳優の能力を軸にした芝居づくりではなくて、人間関係がどんどん動いていく無名性のアンサンブルの芝居づくり、その感触がいいんですね。 「ケプラーあこがれの星海航路」が始まったときも同じようなことを言っていました。「ケプラー」は篠原久美子さんの本で、人間を包み込んで暖かく見守っているとてもいい視点がありました。そういうものをベースに、僕は"人間のこと"を作りました。「GULF−弟の戦争」はもうちょっと小説にのっとって、あるファンタジーを作ってみました。それも浮遊するファンタジーではなく、心の内部をえぐるというか、内面に向かって人間関係を暴くというか、そんなことをやりました。

稽古場より
稽古場より

 今回、シェイクスピアをやる中でもう一つ、芝居の楽しさを大事にしたいと思っています。僕は、ある違う世界をお客さんに提示して想像をかきたてるという意味において、ファンタジーは夢物語だけじゃなく、身近なものでも想像力の及ぶところどこにでもあると思うんです。「尺には尺を」のファンタジーは中世に書かれたということ。現代劇といえども、典獄が出てきて、牢獄があって、首切り人がいて、斧を用意しておけ、とある。これを現代的にどう整合させるかというと、じつはそこがお芝居の遊びどころなわけです。つまりこれは限りなく現代人の感覚を刺激するファンタジーになるし、他にも笑ってほしいこと、楽しんでほしいことがいっぱいあります。お客さんの想像力を刺激して、ああ、おもしろかった、心が浮遊したね、というところまでいければいいなと思っています。

(文責・編集部)

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