第115回公演

「郡上の立百姓」始動!

こばやしひろし=作 藤井ごう=演出

2016年9月17日〜25日 紀伊國屋ホール
9月27日 神奈川県立青少年センター
9月28日 府中の森劇術劇場ふるさとホール
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郡上の山あいに暮らす農民たちが藩の圧政に抗して一斉に立ち上がり、農民による農民のためのコミューンをつくって5年にもわたって闘い続けた――。圧倒的なスケールで史実「郡上一揆」を描いた群像劇に、今秋、青年劇場が総力をあげて挑みます。
 1964年、劇団はぐるまのこばやしひろし氏が書き下ろした「郡上の立百姓」は、翌年、訪中新劇団の演目に取りあげられ、その後劇団民藝が全国公演行いました。こばやし氏が作品に込めた思いを、劇団はぐるま50周年記念公演のパンフレットから抜粋して掲載させていただきます。また、青年劇場団友の後藤陽吉に、こばやしさんの人となりを語ってもらいました。
 「へいへい云っとったら、骨の髄までしゃぶられるんやぞ。」―江戸時代の“百姓は生かさず殺さず”という政策のもと、苦しみもがきながらも、信念を貫き未来に希望をつなげようとする姿は、現代の私たちにも多くの勇気を与えてくれます。40人を超える出演者でお届けするエネルギッシュな舞台、ぜひお誘い合わせの上、劇場へ足をお運びください。

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私にとって「郡上」とは


こばやしひろし


 地方の時代、文化の時代と口にされるようになりましたが、皮肉なことに、いえば言うほど東京製の文化が地方に売り出され、たしない地方の文化予算が東京に集中するというから、不思議というか情けない話です。文化先進国なみの魅力ある地方文化を生みだすには、まだまだ三回か四回、50周年を繰り返さないといけないかもしれません。

 初演は1964年です。10周年公演として、何を劇団として訴えるか、劇団内で討議されたのです。1964年というと、新幹線が開通し、華々しく東京オリンピックが開催された年です。所得倍増、高度成長の真っ只中です。どの家庭も三種の神器に踊りました。ところが、朝鮮戦争は休戦協定が結ばれたがベトナム戦争は熾烈を極め、沖縄からB52が連日海を越えて爆撃していたのです。

 一方で岐阜県では教育正常化が強制され、日教組は分断されました。もの言えぬ職場が増えていったのです。戦後日本のゆがみといっていいでしょう。日本というのはどういう国なのか。誰いうとなく、民衆の歴史を民衆に広げようということになり、「郷土の歴史を掘り起こす」ことが10周年の課題になったのです。

 私は、『踊りの背景に一揆がある』と聞いて郡上に入りました。まだ車のない頃でしたから、バスを乗り継いで乗り継いでの調査でした。調べれば調べるほど、郡上一揆に魅入られていったのです。

 まず立百姓、寝百姓という言葉があるが、今でいえば、第一組合と第二組合です。どちらにも入らないものを、座り物(すわりもの)というから面白い。そのものずばりです。ということは、自立した組織をつくらなければ、こういう分裂が起きるはずがありません。

 なんと、宝暦4年というと1754年。郡上に農民の組織が生まれたのです。しかも庄屋を郡上領内に入れなかったから、農民の支配する農民の村が出来上がったのです。立派な農民コンミューンです。

 郡上の資料の山の中で夢中になって書いていた頃、(劇団民藝の)滝沢修さんの講演会を岐阜でやりました。滝沢さんは、「こばやし君、今、何書いているんだ」と聞かれたのです。私が、『郡上一揆』を書いていると言うと「書けたら送ってくれ」と言われました。言われたとおり送ったが、滝沢さんといえば、私にとっては雲の上の人です。地方でがんばっているこばやしを激励するためのお世辞と思っていたから、読んでもらえるとも思っていなかったのです。それが、翌年の訪中公演のレパートリーになったのですから、私にとっては青天の霹靂でした。

 そして、劇団民藝による全国公演、一昨年の神山征二郎監督による映画化です。今日でこそ、地方発信の文化がいろいろ生まれていますが、当時では画期的なことです。地方文化の最初ののろしと、いっていいと思います。

(劇団はぐるま創立50周年記念公演「郡上の立百姓」パンフレットより抜粋)

こばやしひろし

1954年劇団はぐるま創立に参加。高校で教鞭をとりながら劇作を続ける。1965年退職、以後は劇団活動に専念。多年にわたって地域文化に貢献し、サントリー地域文化賞、岐阜新聞大賞、岐阜市民栄誉賞などを受賞。2011年没。


こばやしひろし氏と青年劇場


後藤陽吉(俳優)


 こばやしひろしさんには青年劇場の前身の舞芸座時代から、岐阜出身の中津川衛ともども大変お世話になりました。こばやしさんは高校の教師で、演劇部の顧問でもあり、岐阜での公演の際にはなくてはならない存在でした。

青年劇場になってからも、飯沢匡作・演出「おお!トラ右ヱ門」の岐阜公演(1983年)をはじめこばやしさん主催の劇団はぐるまの仲間のお力添えは欠かせませんでした。

 劇団はぐるまは創立が1954年、青年劇場より10年も先輩です。若輩の私も、全リ演(※)の議長団の一員としてこばやしさんと席を共にする機会が多く、刺激も受けたし、生意気にもお互いの発展、前進の可能性をも認め合って、創造・普及上の論争も繰り返してきた仲です。

 私は劇団はぐるまの「郡上の立百姓」の舞台に接し、江戸で籠訴を果たした定次郎たちが唐丸籠で運ばれ、戻ってくる―それを郡上の百姓衆が大勢で迎える―そのシーンは、今も強烈に脳裏に焼き付いて消えないでいます。

 単に義民を英雄視するのではなく、一揆から外れていく寝百姓にも血を通わせて描く、こばやしひろし。私はそこに、あの日本の歴史的な安保の闘い、こばやしひろしの青春のある日の姿を重ねて、一人興奮したのでした。

 その「郡上の立百姓」を青年劇場がやると聞いた時は驚きました。登場人物が多く、スケールの大きい作品です。でも、いい作品を選んだと思います。こばやしさんは徹底したリアリストです。戦後に教師になられ、熱情を持って新しい民主的な教育に取り組みますが、それが上からの「教育正常化運動」(※)で潰されていく、そういう過程をつぶさに見て体験していますから、とても現実を見る目が厳しいのです。私などからすると時に悲観主義的に見え、「こばやしさん、そんな暗いことばっかり言ってたら誰もついて来なくなっちゃうよ」などと論争したこともありましたが、むしろ私の方にこそ現実に対する甘さがあったのではないかと、今は思います。

 そんなこばやしさんの作品を青年劇場が初めて上演することはとても有り難く、感慨深く、どんな舞台になるかが楽しみです。  (談)

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全リ演 全日本リアリズム演劇会議の略称。現在の加盟劇団51団体。機関誌「演劇会議」を年三回発行。
教育正常化運動  一九六三年、岐阜県教職員組合に対して、県教育委員会が主導して行った組合脱退強要工作。一万二千人の組合員が二千人まで減らされた。


郡上へ行ってきました!


前谷村定次郎顕彰碑
 岐阜市から長良川沿いに北上したところにある郡上市は、東京23区より広い地域で、ぐるりを山に囲まれた地。美しい新緑の中、鶯の声があちこちで響き、訪ねた時には丁度田植えが行われていました。冬は雪が深い地域で清水に恵まれ、田んぼにも城下町にもはりめぐらされた水路を豊かな水がとうとうと流れています。

南宮神社
 今「天空の城」として有名な郡上八幡城の御蔵会所から、小駄良(こだら)川をさかのぼって、舞台の最初のシーンで百姓衆が集まった南宮神社、林道を通って「定次郎」や「四郎左衛門」の住んでいた川上の「上保筋(かみのほすじ)」へ。この山道を歩いて行き来し、農作業をしながら郡上全体を巻き込んだ百姓一揆を5年間も続けた…、車で回りながら、そのスケールの大きさを実感することができました。
 映画「郡上一揆」のロケをきっかけに「郡上一揆の会」ができ、一揆の参加者の生家跡、顕彰碑などに看板を設置したり、古文書を読み解き地域の歴史を次世代に伝える活動をしたりしています。案内をして下さった方の説明を受けながら一揆の指導者たちの小さなお墓をめぐっていると、この地に生きた人々の思いが伝わってくるように感じました。

劇団はぐるまで、踊りの始動を受ける青年劇場の面々
 岐阜の劇団はぐるまにも伺い、お話を聞いたり郡上踊りを教わったりしてきました。「郡上の立百姓」では、踊りと民謡が大きな魅力。現在の整理された美しい盆踊りとは一味違う、素朴で力強い農民の踊りを教えて下さいました。
 劇団でも、郡上で撮った映像を使いながら勉強会を行い、郡上の歴史と魅力をみんなで共有して、公演に向けた準備がスタートしています。

(福山啓子 記)